時をかける表象

東大に2度落ちてもなお未だに浪人生をしているという学生の日記。記事と日記に分かれてます

【勉強をする意味 実績=努力×才能】

「なぜ勉強をしなくちゃいけないの?」というのは年齢を問わず多くの学生の素朴な疑問である

学生のうちに勉強してなくても社会的に成功を収めている人は多いし、有名大学を卒業していても犯罪に手を染める人は少なからずいる

 

自分がこの質問に対する、自分なりの答えを見つけたのは高校2年の頃

これは、もし自分が母校の合格体験記の執筆を依頼されたら、と思って高2の時に書いておいたものである

 

勉強に限らず、実績や仕事量というのは才能・能力と努力・工夫の掛け算である

公立中学校の教室を見ていると、死ぬ気で先生の言うことをメモして、綺麗にノートをまとめ、定期テスト対策に尋常じゃないくらいの熱意をかけても、結果的には40点くらいの点数に終わる人をよく見かける

一方でぼーっと生きているように見えるのに、何気なく50点くらいの点数を取る人もいる

この差は何かと言われれば当然才能の差である

前者は最大の努力値、つまり10の努力をしているが、才能が4しかないから4×10で40点に終わる

後者は6くらいの努力に8の潜在能力を持ち合わせて6×8=48となるわけである

つまり最大の能力に最大の努力を掛け合わせて最高点が飛び出すのである

これは勉強に限った話ではない

生まれつきマラソンランナーとしての能力が高く、オリンピックで優勝するほど練習を積み重ねたランナーでも、100kmの直線をスポーツカーと競争して勝つことはない

それは人間と乗り物の能力の差である

ここでいう能力や才能というのは、その分野、種目における能力であって、その人が全ての分野において能力が低いとは限らない

ここが一番伝えたいところである

要は、自分に才能がない分野は諦めてしまえばいいのである

土曜の夜に10時間以上勉強して、正気のSaturday Nightと言えるような努力を積み重ねた40点は、誰かが余裕で到達していった点数なのである

幸せとは、自分が楽して他人に勝てる分野を見つけることである

 

じゃあなぜ勉強することを強制されるのか

そもそも勉強の才能がない人間は勉強する意味がないのではないか

それは半分正解で半分間違いである

例えばさっきの40点しか取れなかった人は勉強の才能が4だっただけで、才能がありあまる分野が他にあるかもしれない

そうした時に、その子は間違いなく大成する

なぜなら勉強を通じて努力の最大値を出せるようになったから

最大の能力と合わせれば鬼に金棒である

逆に言えば、6×8=48点の人はどの分野でも大成しない可能性がある

才能が10でも努力が6では60にしかならない

これがいわゆる器用貧乏というものである

だから努力の最大値を出す方法を学ぶために、勉強の才能がなくても勉強する意味はある

これが半分間違いだと言った理由である

じゃあなぜ半分正解だと言ったのか

それは努力の仕方を学ぶ方法は勉強以外にもあるからである

例えば先祖代々伝統芸能に携わってきて、自分もそれを継ぐことが半強制的に決まっている人、あるいは自分は絶対将来歌手やスポーツ選手などになると決めている人

その人たちは人として恥ずかしくない程度の教養さえ身につければ勉強しなくてもいいと思う

実際、卓球選手として大成するのに、美術の色相環や筆者の気持ちを理解する必要はないと思うし、そんなことよりも競技に勤しむ方が効率的だと思う

当時の麻生太郎首相が「未曾有」を読み間違えた時、野党やメディアは一斉にそれを非難したが、幼い頃からスポーツ一筋で生きてきたアスリートが誤読したとしても叩かれることはないだろう

求められることが違うのである

 

でも幼いうちから将来が約束されている、あるいは確固たる将来の夢がある人の方が少ないのも事実である

そして学生にとって1番身近な作業が勉強であるのもまた事実

自分に最も適した分野が見つかった時のために、努力の仕方を学ぶ道具がたまたま多くの人にとっては勉強だったというだけで、別の分野でもそれは代替可能なのである。